特徴・歴史
静岡茶市場の特徴
日本で最初にできた歴史ある茶市場
今では全国に茶の取引場がありますが、その先駆けが静岡茶市場です。お互いの信頼関係で成り立つ取引の良さを受け継ぎ、取引の安全性、公平性を第三者的立場で担保するという、新しい発想から生まれた静岡茶市場のスタイルは、その後全国的へと広がっていきました。
売手、買手のニーズに応えて進化したシステム
静岡茶市場での取引は、売手にとっても買手にとっても非常に大きなメリットがあります。例えば売手にとっては売上金が取引後10日で現金として指定口座に振り込まれること、買手にとっては買い付けた茶は静岡茶市場が責任を持って、指定の店舗や倉庫まで搬入すること、これらは過去において「困った」「こうだったら助かる」という、売手買手のニーズに応える形で作られてきた、静岡茶市場のシステムです。
全国の茶が集まる茶市場
静岡茶市場は開業当初は静岡県内産の茶のみが取引されていましたが、現在では総取引量の約4割が県外産の茶となっています。県外の売手にとって遠い県外の市場まで取引のために人手を割くのは大変でしたが、静岡茶市場では取引を弊社で代行していますので、売手の農家や会社の社員がその場にいなくても、取引が成立します。また買手にとっては県内産だけでなく県外産の茶も静岡茶市場一箇所でいろいろ買い付けられて、大変便利です。
日本のお茶の歴史
日本にお茶が最初にもたらされたのは飛鳥時代。中国に派遣されていた留学生らが持ち帰ったのが始まりです。つまり当時は中国で製茶されたものを飲んでいたのです。
日本で茶の木が栽培されるようになったのは平安時代。中国で仏教を学び帰国後天台宗を開いた僧・最澄が茶の種を持ち帰って植えたのが、日本で最初の茶の木と言われています。その後も鎌倉時代にやはり中国で学んで帰国した僧・栄西が茶の木を栽培し、お茶を飲むという文化を広めました。栄西の時代までのお茶はとても貴重で、当時の天皇やそれに近い人たちだけが口にすることが出来る、宝物のように扱われていましたが、栄西の出現以降はもう少し生産量が増えたため、貴族や上流武士たちもお茶を飲むようになっていきます。鎌倉時代の末期には、裕福な庶民にまでお茶を飲む文化が広まり、当時の本場物である京都産かそれ以外かを飲んで当てる「闘茶」というゲームがはやるほどでした。
室町時代から戦国時代にかけては、茶道が確立する時代です。一時は中国やヨーロッパから入ってくる珍しい器や布を出してもてなす派手な茶会がブームになりますが、元々仏教と縁の深いところから禅宗とお茶が結びつき、シンプルにお茶そのものとその場にいる人との時間を楽しむ「侘び茶」というジャンルが生まれ、千利休がこれを発展させて茶道を創り上げました。
この頃までお茶と言えば抹茶(古くは抹茶のような飲み方をしていたもの)が主流です。江戸時代になるといよいよ煎茶が登場します。このころすでに煎茶のようなものは庶民によって飲まれていましたが、それは「蒸す→乾かす→粉に引く」と製造に手がかかる高級な抹茶を飲むことが出来ないため、杜撰に蒸して乾かしただけの茶を煮出したようなものを飲んでいたのです。しかし江戸時代の中頃に編み出された製法で、それまで茶色だったお茶の色が緑になり、香りや味も飛躍的に良くなったため、煎茶も高級化が始まりました。
静岡県の茶栽培は、江戸末期から明治初期に2つの大きな変化があり、そのため、静岡は日本を代表する茶処に発展したのです。1つ目は、茶栽培地をいち早く山間部から平坦な土地に移して、大規模栽培に対応したこと。江戸時代まではお茶の栽培は主に山間部で行われていましたが、明治の初めには静岡県の牧ノ原台地など、山間部以外での茶栽培が行われるようになります。これは喫茶の文化が広く行き渡ったことに加えて、欧米との貿易が始まると、お茶は重要な輸出品の一つとなったため、大量の茶が必要になったからです。
2つ目は海外との貿易が許可される港として、清水港が早くから選ばれて大いに繁栄したこと。これには静岡のヒーロー・清水次郎長の働きがありました。先見の明がある次郎長は蒸気船が入港できるように清水港の整備をしよう、たくさんのお茶を扱えるようにお茶の販路を拡大しようと、いち早く提言していました。次郎長自身も富士山の裾野にある荒れ地を開墾して、茶園を拓いていたほどです。清水港がお茶の輸出拠点になったことで、それまで京都が中心だった製茶技術が静岡にも移され、現在のように全国から荒茶が集まって静岡で製茶されるという流れが出来たのです。
現在でも静岡は日本最大級の茶処として、茶業界で大きな役割を担っています。
参考文献:「茶大百科Ⅰ 歴史/品質・機能性/品種/製茶」、「大石貞男著作集1 日本茶業発達史」「大石貞男著作酒2 静岡県茶産地史」(以上3冊は社団法人農山漁村文化協会)、「清水次郎長ー幕末維新と博徒の世界」(髙橋敏・著、岩波書店)
静岡茶市場の歴史
昭和31年4月、茶業界の売手買手双方の利便性を図るため、株式会社 静岡茶市場が開業します。最初は競り売りの形態で営業を開始しました。
創業の翌年である昭和32年、売掛金の未回収などに備えるため、社団法人茶取引安定協会(現 一般社団法人)を設立。売手が安心して生産した茶を上場できる取引所として、組織を整えていきます。
茶の取引を仲介する会社として、昭和33年に静岡茶市場仲立人株式会社を設立し、業務委託を開始します。このとき、競り売りから相対売買に取引形態を変更しました。しかし13年後、この静岡茶市場仲立人株式会社は解散。受託にしていた業務は、社内に戻されました。
時代の変化に対応して、こうした組織の変革が行われるのと同じく、業務のやり方やシステムも変化していきます。昭和40年には取引手数料を従量制から従価制に切り替え、出荷量が多く価格が低い場合の負担を減らしたことを皮切りに、取引銀行や関係各位の協力を取り付けて、売手への支払いを現金払いにする(昭和52年)、テレホンサービスを導入し市況を発信する(平成元年)、データをオンラインで提供する(平成5年)など、時宜に応じて業務の迅速化やサービスの向上を進めてきました。
現在は、全国をはじめとする茶の品評会や技術競技会の会場となるなど、茶業関係者のみならず一般の方も数多く見学に来場されております。